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第15回 シアトルより想いを込めて 「見立て」

先日あるアメリカ人のお宅に伺った折、通された広めのリビングルームの壁に豪華な金襴の壁掛けが掛かっているのがいやでも目にとまった。 ほう!と思ってよく見ると、それはなんと袈裟である。日本の偉いお坊さんが晴れの法儀のとき身につけるそれである。ははーん、 アメリカ流の見立てだな、なかなかいいじゃあないか、と感心もした。もし日本だったら尊い袈裟など家庭に飾るなどはもったいない限り、 罰当たりということになるがそこはアメリカ流、この種の飾り付けや用途使いは、この国では稀なことでもあるまい。袈裟のタペストリーも おそらくは着物のそれから発想したものであろうが、もしかしたら初めから袈裟などとはつい知らず、タペストリーと思い込んでいたのかも しれないし、寛容に見ておくこととしよう。それよりもこの袈裟を売り飛ばしたであろう日本の坊主の方こそ罰当たりと言うべきかも知れない。

見立てといえば日本でも古く桃山の時代、千利休や古田織部といった進歩的な茶人が好んで使った。薬壺であったものを茶入れとして使う、 泥くさい南蛮の焼き締めを花入れに見立てる、などというのも彼らの創出であろう。今日でも南蛮と賞されるやきもの、もとはと言えば元寇船、 つまり軍船の火薬壷であったものだと言う。それが堂々と茶席の床に飾られると結構な花入れに仕上がってしまうから可笑しい。そういう茶道具 としては似ても似つかぬものを見立てて使う、その心意気の中にわびさびや洒脱を感じとろうとしたのであろう。

今では、彼ら進歩的な茶人の末裔達が大組織を率いて家元を名のり、見立ての器物にまで箱書きなどをして、元々のわび、さび精神とはほど遠い 存在として君臨すると言う皮肉な結果をもたらしている。日本の文化と言えば文化なのであろうが、どこかで始祖の精神がすりかわってしまっ たとも言える。洒脱などと言ってみても人間の奥深くにこびりついた執着心、そう簡単に脱落できるものでないことだけは確かだ。そう言えば、 お茶やお花はもとより最近では俳句、詩吟に至るまでが流派、家元ばやりである。どこかで権威に寄りかかっていたいと思う人間の弱さゆえか、 日本的風土、気質ゆえか。難解なものであることは間違いない。

講釈はさておいて、日本人の見立てとアメリカ人のそれとではいささか雰囲気が異なることもある。もちろんアメリカには、流儀や師匠などという 存在はないから見立てなどと言うよりも面白がって自分流に仕上げてしまうということになる。しかし、いくらヴィクトリアンの時代ものだと言っ ても、簡便型のボックス便器をワインクーラーに使うなどというやり方は、ぼくならずとも日本人には到底馴染めるものではあるまい。だが、 最近は日本人とて変わってきた。先日も日本でのある華展で、本物の小便器を花器に見立てて使ってあったのには全く驚いた。

見立ては、遊び心であり、洒落っ気でもある。型にはまってしまうのも面白味を欠くが、あんまり度胆をぬくようなのも精神衛生上かえってよくない。







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