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第17回 シアトルより想いを込めて 「森の自然」

2003.5.21

ここシアトル神護寺の森には野生の鹿がときどきやってくる。いつも2頭連れなのだが、きっと去年生まれた小鹿兄弟だとおもう。 去年の秋までは母鹿と3頭で来ていたのだが今は2頭だけだ。母鹿はどうしたのだろうか、たぶん親離れしたのだろう、きっとそうに違いない、 などと思ってみる。

1週間ほど前からは、毎日それも朝夕に来て、境内と言うほどでもないのだが、とにかくこの敷地内を歩いたり、裏の草っぱらで何やら食んでみたり、 家のすぐ近く窓先まで来て、そこにある庭木の葉を食べたりもするようにもなった。ときには、ほんの目と鼻の先ほどまで近づいたりしたこともあるが、 驚いて逃げたりはしない。そして、草の中でゆったりと寝そべったりするようになったのは昨日からのことである。

今は、5月の夕方7時すぎ、ここシアトルではまだ陽があって充分に明るい。鹿の兄弟は、先ほどから草はらに寝そべって動こうとしない。 ただ首だけは立てていて、ときどき窓越しにぼくと目線が合ったりするのだが、ぼくの方も彼らを驚かせないように優しい目つきをして大丈夫だよ などと声をかけてやる。もちろん窓ガラス越しであり、近いと言っても20メートルほどは離れているだろうから声が聞こえるはずはない。でも、 こちらの意が通じたのか、危害を与えられることがないと分かったのか、ぷいと横を向いていっこうに動こうとしない。ひょっとして彼ら今晩は あそこに泊まるつもりなのだろうか? などと思ってみたりもした。ぼくは鹿の生態を知らないから、彼らがどういうところで、いつ頃の時間眠 るのか解らない。もしここをねぐらにするのだとすればこんな自然の風景はないのに、などと思ってみる。しかし、ぼくの淡い望みとは裏腹に鹿の 兄弟は、1時間ほど寝そべってから2頭そろってゆっくりとここから立ち去った。少しがっかりしないでもなかったが、でもあんなに安心しきっ てゆっくり休んでいったのだからそれだけでも素晴らしいじゃないか、などと思ってみた。ここの森はほとんど人の手が入っていない。それに以 前は馬が飼われていたらしい裏の広場も、草の生えるままにほっておいたのが幸いしたのか、どうやらここは鹿達に気に入られたようである。

草も樹も自然のままにひとりでにそこに生えて、そこに息づく動物や、鳥たちがその芽や実を食む。そして人もまた自然の生きものたちの恩恵に あずかる。ここにひとりでに生えるワラビや薇もその一つであろうし、川の魚などもそうである。そういう自然の中に佇むとき人は心安らぐ。

自然とはこういうものなのだろう、ひとりでにそうなっているすがたを自然と言うのだ。自然は対象物などではなく、自らも含めてひとりで にそこに息づいている生命そのものなのだろう。少し前までぼくたちは、これを自然「じねん」と呼んでいた。

しばらく鹿たちの姿を眺めているうちに、ぼくはこの自然の森の中にくらす仕合せをいやがうえにも感謝せずにはいられない気持になった。 これは鹿がぼくに与えてくれた仕合せなのだ。そんな気持にひたることができた。きっとこれを自然の神秘と言うのだろう。

人間のわがままや思いあがりで、この自然の神秘を犯したりしてはならない。ぼく達の祖先は、森の樹に精霊を感じ、森の動物を神の使いと観た。 それを原始的だ、非科学的だなどとあざ笑う力が現代人のどこにあろうか。人間はこの大自然を離れてはひとときとして生きてはいかれないのだから。







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