
和尚さんが日ごろ感じたことや、思ったことを日記にしています。
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第21回 シアトルより想いを込めて 「ストームと停電」
秋から冬にかけてシアトル地方の年中行事とも言えるのがストーム。太平洋からの猛烈な風が吹き荒れる。それに雨をともなうことも多い。
ぼくの住まいはシアトル郊外の少々山の中。ちょうど峠のあたりだから風当たりは一段と強い。それにしても昨日のストームは少しばかり強烈だった。
おとといの夜半から吹き始めた風はかなり強かったが、心配の例にもれず夜中には停電。もちろん一晩暖房が止まれば家の中はもう冷蔵庫同然となる。
朝は7時過ぎになって夜が明けるので、それからがようやく行動開始となる。といっても雨風はまだまだ収まらず庭は荒れるに任すのみ。
夕方まで吹き荒れた風は、かなりの爪あとを残して少しは収まったように思えた。あたり一面といい道路上といいあらゆる場所はおびただしい数の
木の枝で覆われ、歩くのはもちろん車を走らせることさえかなり大変なくらいの惨状である。それに所々では大きな倒木があり道を塞ぎ電線を切断する。
家の中の寒さに降参したのと、食事を作ることもままならないので、仕方なく夕方暗くなってから車で出かけてみたのだが、やはり道路はあちこちで
通行止め、どこもかしこも停電しており、あたり一帯はすべて暗闇。車のヘッドライトだけが延々と続いている。もちろん信号も止まっているので道
路はどこもかなりの混雑状態である。こんなときいつも感心するのだが、信号が消えたその瞬間から各地の交差点では4ウエイストップの秩序が守ら
れることとなる。つまり4方向がそれぞれ一旦停車、交互に1台づつ通行するのである。別に警察が駆けつけるわけでもなく、それぞれの運転者がごく
自然にそういう行動をとる。こういう時2台続けて走り抜けるような不届き者はついぞ見たことがない。立ち食い、歩き食いなどの行儀の悪さにはあ
んぐりするほどのアメリカ人ではあるが、こういうマナーだけはちゃんとしているのだからこれもまた不思議といえば不思議である。それに地域中
がこれほど荒れていても、取り立てて慌てふためくわけでもなく、隣近所はまったく何事もないかのように暗闇の中に静まり返っている。
最近はぼくもようやく慣れて、停電の夜の静けさと、暗さゆえの心地よさというか、蝋燭生活を楽しめるようになった。揺らめく蝋燭の光に照らし
出されたほの暗い生活は、少し離れたところのものなどはっきりと見分けることができないから不便といえば不便ではあるが、ちょっと慣れれば
心がゆったりとして落ち着いた気持ちになる。どうしてかと思ってみたのだが、ほのかな光は、近くのものだけを照らし出すことになるから余分
なものが見えない。蝋燭の小さな光は、必要なものだけを照らしてくれる。今のぼくにとっては必要なものだけが見えればもうそれで十分なのである。
この余分なものが見えないということはなんと安らかことであろうか。暗くて見えぬ先はもう想像するよりほかないのだから言ってみれば神秘の
世界である。窓の外の暗闇に妖怪が潜んでいようが、森の動物たちの営みがあろうが、目には見えない。見えないがゆえにいやがうえにも神秘性が
増す。敬虔な気持ちや魂の実感は、こういう暗さの中にこそ生まれるものだと思う。ぼくは子供のころ、暗くなってからの家までの帰り道に近所の
小さな森を通る度、お化けが出そうな気がしてきて怖い思いで走りぬけた経験が何度もある。それどころか、家の中でも台所などでは天井がなく
梁が丸見えになっていたりして、その隠れたところに何か怖いものが潜んでいるような気になることさえ幾度もあったように覚えている。
便利で明るく近代的な街中の生活では、そういう目に見えぬものへの恐怖心こそあまり経験しなくなった代わりに、心の煩雑さが増したように
思えるのだが。
明るすぎるほどの現代生活だが、思ってみれば今のような明るさをぼくたちが手にしたのはそんなに遠い昔からではない。電気の普及が生活に格段の
明るさをもたらしたのであろうが、それとてまだ百年足らず。それに今ほどの明るさになったのは、戦後の経済復興が進み蛍光灯が普及してからだと
思われるからこれはまだつい最近、数十年前からのことである。ついこの間までは、蝋燭、行灯、ランプ、などのほの暗い中での生活が世界中に
あった。いや今でも電気や電灯の恩恵を受けていない人々は地球上に多い。
夜は暗いに決まっている。それはあたりまえのことなのだ。ぼく達は、そのあたりまえのことすらも、ともすれば忘れてしまっているのではないだ
ろうか。神仏はわれわれに明と闇という二つの場を与えてくれている。光の中に見えるものだけが存在するのではない。闇の中にこそ見えるもの
もある、ということを蝋燭の明かりに照らされたほの暗い部屋の中で思い起こされたような気がする。そこには神秘を感じ取る感受性があり、
心の深さがある。それに谷埼潤一郎が「陰翳礼讃」の中で絶妙に語っているように暗さゆえの美もある。それらは心の平安とよんでもいいものだろう。
これは停電の功名かもしれない。
あまりにも明るすぎる現代生活の中に、ぼくたちは何か大切なものを失い、そして余分なものを見すぎているのではないだろうか。
今の日本では停電の経験はほとんどないように思う。結構なことではあるが便利さゆえに忘れ去ったものも少なくない。そこで提案なのだが、
いっそのこと月に1回ぐらい停電の日を作ってみてはどうだろうか。思ったより案外楽しい日になること請け合いだと思うのだが。
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