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第26回 シアトルより想いを込めて 「イチロー」

一人の選手のプレーがこれほどまでに注目を集めた試合はプロ野球史上でもまれであろう。その日のシアトルマリナーズの本拠地、 セフィーコフィールドは、四万八千人の観客が余すところなくスタンドの全てを埋め尽くし、とても最下位確定チームの終盤消化試合とは思えない 緊張感に覆われていた。午後7時予定通り試合は開始された。1回表の相手チームの攻撃は、意外と長引きマリナーズは早くも2点を失った。 それにもかかわらずほとんどの観客は、気持ちの高揚を抑えるかのように静かにゲームの進行を見つめていたが、やがて相手の攻撃がようやく終わり、 チェンジとなってマリナーズの先頭打者イチロー スズキがコールされるとそれまで抑えに抑えていた興奮が一挙に噴出したかのように、球場内は大 きなどよめきに包まれていった。

イチローがバッターボックスに立ったときにはもう大観衆は総立ちになり「イ、チ、ロ、 イ、チ、ロ」のコールと共に異様な興奮の渦に はちきれんばかりとなった。それは同じ期待感で球場内が埋め尽くされている証拠でもあった。2球続けてファウルした後の5球目、イチローは 大観衆の期待に応えるかのようにシャープにバットを振り抜いた。球は見事に左前にはじき返された。外野スタンド最上段に用意された打ち上げ 花火の音もかき消されんばかりの大歓声が起こり、観衆は興奮の渦の中に巻き込まれていった。野球音痴のぼくでさえも興奮と歓喜とで胸が いっぱいになり、目頭が熱くなった。

その後、3回裏の第3打席、やはり観衆は総立ちとなって世紀の大記録達成をどよめきと共に見守った。イチロー自身にとっても重圧と、 緊張が漲っていたであろうことは間違いないのだろうが、彼は世界中の期待と興奮をその全身に包み込むかのようにしなやかにバッターボックスに 立っている。かえって相手投手の方が、そのフォームが少しぎこちなくさえ見える。イチローがそのバットで速球を確実に捉えたと見た瞬間、 球場内が一つのどよめきとなって他の全ての音が完全にかき消された。前にも増した大歓声が球場を覆い尽し、四万八千人の目が一塁ベースを走り 抜ける彼にくぎづけとなった。マリナーズのチームメート全員が駆け寄って彼を祝福し、試合は当然のように一時中断された。彼は球団関係者からの 祝福を受け、観衆の声援に帽子を取って応えた。観客の全員が歓喜し、その興奮は絶頂に達した。84年間大リーグ史上に君臨し続けたジョージ  シスラーの年間257本安打の大記録を、渡米4年目の日本人選手が見事に塗り替えとしたその瞬間である。

イチローは不思議な選手である。この日の観客だけではない、日米の多くの人々を興奮の渦に巻き込みながら、自らは淡々とした野球をやってのける、 自ら興奮することも歓喜することも然程に感じさせないところは、どこか職人のそれに似ていなくもない。ぼくにはそのように思えてならない。 自分の培ってきたことをこつこつと地道にやってのける。世間の煽り立てに踊らされることもなく、冷静に野球人生を歩んでいる。 ミーハー的な騒ぎを寄せ付けない孤高の雰囲気さえ持っているように思えるところがたまらない魅力だ。こういう選手はプロ野球史上にも 少ないのではなかろうか。







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