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第32回 「似非に流されるな」

2005.7.13

シアトル神護寺から程遠からぬ場所にも回転寿司なるものが開店した。うわさに聞いて一度行ってみたのだが、これがまた寿司の形はしているものの 寿司とは似ても似つかぬ代もの。ここはアメリカなのだから、カリフォルニァロールまでぐらいは我慢するとしても、マヨネーズだの、アボガドだの、 いかにも色付けしました候の海栗まがいだのが出てくればこれはもう寿司とは似ても似つかぬもの、似非のほか何物であろうか。

そもそも寿司屋とは、寿司職人がカウンター越しに客の按配を伺いながら、ほどよく握って、話の具合も付かず離れず、相槌を打ちながらそれでいて 結構楽しませる。酒の燗も客の好みに合わせながら、また客の器量を見極めながら多からず少なからず。ま、そこまでは期待しすぎかもしれないが、 でもやはり、すし屋の雰囲気というものがあるというもの。

日本でも回転寿司が結構流行っていると聞くが、食べればいい、ネタが大きければいい、効率がよければいい、なんてことが罷り通るならそれはもう 文化の崩壊というほか何ものであろうか。ましてや日本の寿司文化の何ものかを知らぬアメリカ人が、こういう似非寿司屋を日本文化と思って間違えて 捉えたとしたならば、ことはもっと恐ろしいことだ、とぼくは考えてしまう。

言うまでもないことだが、アメリカは建国以来の歴史が浅いゆえに、伝統文化が希薄であることは否めない。それに比べて日本には奥ゆかしい文化の 香りがある。しかし、昨今の日本の現状を観るに、あまりのも伝統の深さを蔑ろにしてはいないか。合理的であればいい,効率的であればいい、 と言うだけで本当に人は心安らぐのであろうか。そうではないだろう。先人達は、伝統を継承する中に人が心を豊かにする智恵を育んできたので はないだろうか。それを形だけの似非に代わられてたまるか。と、ぼくは言いたいのだ。

これは、何も寿司屋だけに限ったことではない。お寺だってそれは言えよう。バタ臭いようなお寺なんてもう真っ平ごめんだ。本来お寺の果たしてきた 役割とは何であったのか。

お坊さんであるぼくは、今それを考えている。

伝統とは、歴史の中に身をおきながらそれを少しづつ少しづつ進化させていくものではなかろうか。

アメリカにいて、千年の歴史に育まれた日本の伝統文化が如何に大切なものであるか、それをつくづくと思う。「宝物は既に手中にあり」 現代の日本人がもう一度考えてみる課題ではなかろうか。







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